19ルサカ暮らし

【住まい】

 住まいは、Northmeadにあるガバーメントフラットが割り当てられた。この住まいまでの道程は遠くJICA事務所に4ヶ月住んだ後での住宅だったので引越しが出来たときはホッとした。電気のメーターから70年代初めに建設されたと推測されたが、若干の補修をしただけで暮らしやすくなった。しかも、日本流でいうILDKは一人では十分な広さであり快適だった。リビングルームには電気式のストーブが取り付けられていたが、これは壊れていた。立地はノースミードマーケットに隣接しているため買い物や食事には便利な場所であった。

【衣料】

 街中の店でジーンズやシャツなどほとんどのものが手に入った。ジーンズなどその場で寸法を直してくれた。下着を一度買ったが(中国製との表示があった)一度はいたらほころんでしまった。男物でそうなのだから女性用は持ち込む必要があったのだろう。総じて細かいことを気にしなければ問題なかった。

【食】

 日本食をと思わなければ必要な食料品は入手できた。しかも新鮮なものばかりであった。マンゴ、オレンジ、イチゴ、アボカドなど季節の果物など豊富であった。お米は日本米に近い隣国マラウイ産のお米がマーケットで容易に入手できた。カリフォルニア米は商社が当番制で購入していたようであるがJOCVまで程遠かった。

【水】

 水質は良いとは聞いていなかったので常に煮沸して飲んだ。ルサカにあってはここは断水もなく水供給も安定していた地区であった。ルサカの水道事業におけるおきな問題は漏水とのこと。つまり、土中から浸透圧によって不純物が入り込むようだ。

【治安】

 ノースミードでの暮らしでは危険を感じたことがないし、泥棒に入られたいうことも聞かなかった。常に子供たちがいたこともあるのだろう。ただ、夜間、威嚇なのか銃声をよく耳にした。

【買い物】

 街中のインド人商店、カブロンガのスーパーマーケット、デューティーフリーなど一般消費財は豊富にあり特には困ることはなかった。

【インフレ】

 通貨の変動によって、ほとんどが切り下げ状態であったのだが、輸入している物品の値段が大きく変動した。赴任した当時は1ドル6−7クワチャであったが帰国するときには30程度まで下がっていたと思う。しかし、多くはないが外貨を支給されていたので差ほど影響はなかった。

【郵便事情】

 日本まで5日で届いたことがある。一般的に問題はなかった。一度英国へリバーサルフィルムを現像に出したのだが、それが2本ほど戻って来なかった。これはザンビアの郵便事情によるものなのか英国の郵便事情によるものなかは不明である。

【電話】

 電話がないわけではなかったが電話を引くのはかなりの長期間待つことを覚悟しなければならなかった。どの程度かというと、それは1年とか2年というスケールであった。したがって、協力隊員で電話を新たに引こうという人は稀であった。私の場合も最初は任期中に引いてもらえるかどうか疑問だったので申し込みをしていなかったが、途中、気が変わり任期が満了してもこのフラットには協力隊員が入るだろうからと思い申し込みだけをしておいた。予想通り、私の任期中には電話は引かれることがなかったが、私のフラットを受け継いだ隊員の時に電話が引かれたと後から聞いた。どの程度の期間がかかったのか定かではないが1年以上はかかったと思う。これはこれでよかったと思っている。

 このような状況から電話がフラットになかったので、電話をしたいときはJICA事務所か中央郵便局まで出かけた。個人的なことはJICA事務所では掛けにくいので中央郵便局へ行った。国際電話も然り。中央郵便局では名前と電話番号をを書いて待合室で待つ。順番が来ると呼ばれてボックスへ入り受話器を取ると呼び出し音が聞こえているという状態だった。そして通話が終わると、料金を支払う。当時は1分日本まで300-400円程度だったのでは。電話の他にファックスやテレックスも受け付けていた。

【新聞】

 Times of Zambiaという日刊新聞があり、容易に購入できた。当時は旧ソ連よりだったので、紙面には人の名前の前に同志(Comrade)という敬称がついていた。つまり、Comrade Kaundaとか。紙面が共産主義一色だったなー。

【銀行】

 ルサカにはBarclays Bank、Standard Charterd Bank、Citi Bankなどの銀行があった。我々はBarclays Bankに口座を設け、生活費を受け取っていた。口座はUSドルで振り込まれローカルカレンシーで預金されるエクスターナルアカウント(外貨へ交換可能)だった。当時、クワチャは変動相場制でその価値がかなりの勢いで下降しており、入金と同時にUSドルのトラベラーズチェックに交換していた。それを必要に応じて現地通貨であるクワチャへ両替し使っていた。

【日頃の足】

 HONDA CD50という50ccのバイクがJOCVの交通手段として供与されていた。最初の頃は、バスかタクシー、相乗り若しくはヒッチハイクなどしかなかったが12月に入ってからだろうか、日本から届いたので赴任した隊員に配布された。50ccだから遠乗りは厳しいがルサカの街中では効力を発揮した。これで行動範囲が広がった。


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