18ノースミードガバメントフラット

 1986年の12月、4ヶ月ほどのJICA事務所暮らしの末、Northmeadにあるガバーメントフラットに最終的には入居することが出来た。これは前任者が住んでいたフラットで任期が重なっていたので待つことは致し方なかったのだろうが、それなら、派遣の時期を少し遅らせてくれたほうが苦労がなかったと思ったものだ。

 フラットは3階建てで、同じ様式のフラットが何棟かあり、入居したのはお店に近い棟で名称をバロバレコートといった。部屋は2階の一番端、階段の隣であった。同じフロアに同期の獣医師であるTさんが既に住んでいた。後にTV局へ派遣されていたMさんが3階に越してきた。

 ここは日本流に言えば1LDKでベッドルームとリビングルームが北側を向いており、キッチンとバスルームが南側、つまり廊下側にあった。南半球なので北側から眩しい日差しが入ってきっていた。建物はしっかりとしたつくりで、歩いてもギシギシという音はしないので今ロンドンで住んでいるフラットよりしっかりとしているのではと思う。構造はRC+組石。リビングには電気ストーブが付いていた。

 ベッドルームにはシングルベッドが二つあった。二つともスプリングが伸びきっており、ベッドに横になると真中がかなり沈む状態であった。そこで、帰国する隊員のフラットから、同じ状況だったのだろう、柔道に使う畳をベッドに敷いていたので、それをもらってきて同じように敷いてみたら、これが丁度良かった。

 先ずここでしたことは冷蔵庫がなかったので買うことにした。丁度、勤務先のスリランカ人が売りに出しているのを同僚のYさんが話を繋いでくれ直ぐに決まった。たしか250ドルだったと思う。運んできてもらってびっくり、これがかなり大きな冷蔵庫だったがなんとか収めた。

 それから、ゴキブリがものすごく多かったので全ての出入り口を網で塞いだ。そして、ごきぶりホイホイをお店で見つけたので、これは南ア製だったかな、そこらじゅうに仕掛けたら、大きなゴキブリが面白いほど取れた。一週間もするとほとんどかからなくなり部屋のなかなかはいなくなった。それとゴキブリを始め虫が夜間部屋へ入ってくるので窓の網戸も修復した。

 什器類も使い古されたものが多かったのでアルミの鍋やフォークとナイフ、そしてシーツ等を購入した。当時はインフレが進んでいたせいか外貨で暮らしている我々には差ほど高くは写らなかった。包丁は日本製であったが切れ味が悪かったので研ぎ器を購入した。それを使ったらそこそこ使えるようになった。

 食事はザンビア人のサーバントにザンビア料理を作ってもらったり、自炊したりした。前任者から購入した炊飯器があったのでマーケットでお米を買ってきて炊いた。お米は隣のマラウイで耕作されているマラウイ米が市場に出回っており、これを食べた。マラウイ米は台湾の農耕技術団が指導して栽培しており、ジャポニカ米に近かった。時々、カリフォルニア米が特別ルートで手に入ったことがあった。野菜や肉などは直ぐ近くのマーケットで容易に入手できた。ヒレ肉やTボーンなどかなり廉価であった。また野菜では、トマト、タマネギ、オクラ、レイプ(青い葉)など、季節によってはきのこ類も入手できた。

 壁もペンキが剥げ落ちたりしていたので、ペンキと刷毛を買ってきて塗り替えた。自分ひとりでは大変だったので、週2回来てもらっていたサーバントのアブラハムにお願いした。素人ゆえきれいには仕上がったとは思えなかったが以前よりはかなりよくなったと自己満足に浸った。

 バスはギザという温水器に水をためて電気で沸かしてそれを風呂に使うシステムになっていた。バスタブは西洋式の大きなのがあり丁度これを満たす程度の容量があった。入居したときはそのギザへ水を供給する部分に問題があり常に水が流れっぱなしであったので、ギザの蓋を開けて水が一杯になると水が止まるように修理した。トイレの水洗も水が貯まらないことがあったので、その部分を新たに購入し付け替えた。

 ルサカの中でも断水が多い地区とそうでない地区があったが、ここノースミードは任期中ほとんど問題なかった。電気の供給も落雷で停電が数回あったもののその他は問題なかった。

 ここは一人で住むには十分な広さがあった。誰かとまりにきても予備のベッドがあり余裕があった。隣近所のザンビア人のフラットでは広さの部屋に5人も6人も住んでいたことから比べるとなかなか良い暮し向きであったに違いない。

 そんなこんなで、少しずつ快適な環境が出来ていった。そのうち隣近所の子供たちが遊びに来るようになった。ジャパニジャパニといって、帰ってくると夕飯時まで部屋で遊んでいった。


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