20ベニーバ英語教室

 私が赴任したときにはもう既にベニーバ英語教室というのがあった。英語力もままならないまま不安を抱えていたので何とかしなければと思っていたところ、同じ建築局に派遣されている人に誘われたので行ってみることにしたのが参加のきっかけだった。週一回か二回彼女のフラットへ行って英語で雑談をした。彼女は仕事柄か政治の話題がとても好きだった。授業料なしの彼女のボランティアによる教室だった。

 ベニーバは米国籍のアフリカ系アメリカ人、ヒューストンの出身でベニーバ・ニャム(Beniva Nyam)といった。彼女の本職は、United Nations for Namibian Extensionという国際機関で働いていた。UN Namibian Extension はルサカに本拠地があったナミビア亡命政権であるSWAPO(South West African People's Organization)と関係があった。当時、SAWPOの議長はサム・ウンジョマといって現在のナミビアの大統領である。

 ルサカにはSWAPOと同様、南アの黒人亡命政権、ネルソン・マンデーラを議長とするANC(African Nations Congress)があった。赴任する年の初め、南アがルサカ郊外のANC本部を空爆したというニュースが日本まで伝わっていた。当時、ANCはテロ活動を活発化させており、空爆は南アの反政府勢力であったANCに対する報復爆撃と見られていた。その本拠地がルサカにあったということは、カウンダ大統領(当時)擁護があったからであろう。ANCとSWAPO の関係は南ア政権がナミビアを信託統治領として支配していたことから非常に近かったと思うが詳しくはわからない。あるとき、ベニーバからANCとSWAPOのバッチをもらったのを覚えている。

 彼女の英語は非常に早くて最初は何を言っているのやらよく聞き取れなかったが、慣れてくれば少しは聞き取れるようになった。ゆっくり話してとお願いするのだが、直ぐにもとのスピードに戻ってしまう。これは彼女の性格なのだから致し方ないと諦めた。彼女にはウンダパンダという娘が一人いた。当時ハラレのハイスクールで学んでいて、休みになると母親であるベニーバの家に戻ってきていた。同じように早口なのかと思ったら、まったく逆でゆっくりしゃべる高校生だった。つまり反面教師だったのだろうか。

 いつも彼女の教室へ行くと特別な飲み物が出された。何というのだろうか、タマリンドとジンジャーが入っているようだった。再現してみようと何度も試みたが同じようなものは出来た試がなかった。したがって私はこの飲み物をベニーバスペシャルと呼ぶようになった。

 彼女は昭和46年式の白いTOYOTA CALLORAを普段の足に使っていた。当時としてもなかなかお目にかかれない代物で、私としては非常に懐かしさを感じたことを思い出す。つまり、私の小学生のころによく走っていたからだ。残念なことにこの車は彼女の帰国する間際に盗難に遭い、彼女の手から離れてしまった。

 ナミビアの独立と同時にUN Namibian Extensionはその役割を終え、ベニーバはヒューストンへ帰国していった。


 
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