41 ソルウェジ総合病院とメヘバ難民キャンプ | |
■ザンビアの銅鉱山地帯(カッパーベルト)のキトウェ UBZのバスでルサカからキトウェへ向かった。距離にして約400キロ、時間にして5時間。何度かこの路線に乗ったことがあるがザンビアでは快適なバスだった。キトウェ及びその周辺のンドラとチンゴラには同期が赴任していたし、キトウェには気の合う仲間も多かった。ルサカでは彼らとよく顔を合わせていたがこちらが出向いて合うのが稀有だったから、よくきた、よくきたと持て成された。キトウェの生活はルサカとさほど変らない印象だった。事務所の目から離れていることもあってみんな伸び伸びと生活していた。 キトウェではザンビア工科大学で製図を教えていた同期の家に泊めてもらった。ここも大きな家で大学の構内にあった。滞在が短かったせいか、キトウェの街の地理には疎い。自分の足で歩いていないからかもしれない。どこをどうやってバス停からそこまで行ったのか覚えていない。 ■ノースウエスタンプロビンス州都、ソルウェジ キトウェからソルウェジの間の道路は未舗装道路でバスはラテライトの簡易舗装道路をひた走った。途中、休憩で立ち寄ったところで岩塩を売っていた。木の葉に包まれた岩塩はルサカまで持ち帰り使ったがいい味だった。 薬剤師がソルウェジ総合病院で働いていたので彼女を訪ねるのとさらにその先にアンゴラの難民を収用しているメヘバ難民キャンプがあった。日本のNGOである難民を助ける会が上総堀という工法で井戸を掘り活動しており、また、日本の無償援助で清水建設が学校を建設していた。 ソルウェジのようなかなり奥地でもインド人が住んでおり、パンなどを焼いて売っていた。私が行った頃はまだ良質の小麦粉が入手できたようで、焼きたてのパンはこれほど美味し以下と思うほど美味しかった。ミートパイやサモサなどのファーストフードも 薬剤師は大きな一軒家に住んでいたのでその一室に泊めてもらった。以前はここの病院で働いていた看護婦隊員が住んでいたとのこと。一人では広すぎるが他に住宅(病院所有)もなかったのだろう。 ■メヘバ難民キャンプ彼女から、ホンダCD50を借りてソルウェジからメヘバまで行った。どのくらいかかったか覚えていないが、アフリカの大地を50ccのバイクで走っていくのは、太平洋に浮かぶ小船のようなもの、緩やかな地形と変わりらない風景の中ひたすら走っていった。道は一本道なので迷うことはなかった。それに、道路は舗装されてており交通量も少なく路面の状態は非情によく快適なツーリングだった。このころは少し寒くなってきた頃で、上着を持ってきていなかったので、トレーナーの下に病院の薬品庫にあったダンボールを胸に入れて首にはバンダナを巻き寒さをしのいだ。 メヘバ難民キャンプの入り口に、難民を助ける会の事務所がありボランティア−が一人働いていた。突然の訪問にも関わらず(この当時は連絡しようにもできなかったのでソルウェジでの情報だけがたよりだった。薬剤師曰く一人キャンプにいるので訪ねればよいとのことだった)歓待してくれた。 上総堀で作った井戸へ、子供たちが手押しポンプを使って水を汲んでいた。勢いよく汲み上げられた水をはポリタンクに入れて運んでいた。また、掘りかけた井戸も見せてもらった。水が上手く出るときと出ないときがあり、それが非情に難しいとの説明だった。 さらに奥へ行くと日本の援助で建設中の中学校があった。簡素なデザインとはいえキャンプの中ではかなり充実した施設になるであろうことは想像がついた。 事務所に戻ってから、ザンビア料理、シマヤ・ニャーマ(シマ(メイズを挽いてお湯に中に入れ練ったもの)と肉の煮込み)をご馳走になった。ザンビア人かアンゴラ難民だろうがローカルが作るこの料理は格別なものがあった。 メヘバでは食糧がなかなか手に入らないでので定期的にソルウェジまで買出しに行っているとのこと。何かにつけて車がないと生活ができない様子だった。同じザンビアとはいえルサカとここでは、ソルウェジでも同じようなものだが、生活環境に雲泥の差があった。長期では厳しいだろうと思う。 同じ道を走って帰ったのだが、気分的に帰りのが早かったような気がした。 ■ソルウェジで餃子 余談だがソルウェジで餃子を作った。お世話になったYさん宅に以前住んでいた看護婦の人が残していった餃子の皮があったので、じゃあ挑戦してみようかということになり、想像で作った。どうやって作ったかは覚えていないが、ひき肉と野菜をみじん切りにして皮で包んで焼いたら餃子のようなものができた。そして久しぶりに和食の気分を味わった。 |
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