30東京船員保険病院での入院生活

 ルサカからUTAでパリへ、そして、数時間待ってAFで成田へ飛んだ。成田空港ではK国担当が迎えにきていた。タクシーで高輪にある東京船員保険病院(現在は、せんぽ東京高輪病院)へ直行しそのまま検査入院することになった。車中、今回の経緯を報告した。

 東京船員保険病院は協力隊事務局の顧問医をされていた感染症を専門とされる大谷医師が勤務していた病院だった。ザンビアへ赴任する前の訓練期間中、健康診断で丁寧に診断していただいた。そのとき、お腹のところに皮膚の色がやや濃くなった円形の箇所があり、それを見逃さずに治療を薦められ、一度この病院へは来たことがあった。

 病院は新高輪プリンスホテルの直ぐ前にあり、品川駅からもさほど遠くない距離だった。正門前には、新高輪プリンス迎賓館(旧XX宮廷)が周囲をアスファルト舗装に囲まれた建物だけが浮きだった異様な空間だった。

 入院してから先ず、整形外科、眼科、泌尿器科と検査をしていった。さらにザンビアで詰め物が取れた歯の治療もした。

 整形外科では、開口一番、事故後なぜ直ぐに診断に来ないのかと医師から強く言われ、説明のしようがなかった。レントゲンの結果、頚椎が本来なら弧を描いているが真っ直ぐになっているので、延ばす必要があるといわれ、その後、首を延ばすリハビリをした。

 眼科では、打撲した右眼を中心に眼底、眼圧検査などした。幸いにも問題なかった。

 泌尿器科では、事故後腰の痛みが残っていると説明したので腎臓を疑われ、造影剤を入れて腎臓からの尿の流れを検査した。左右の腎臓の位置がずれていることが指摘され、これが先天的なものなのか、事故によるものなのかは定かではないとのこと、しかし、腎臓からの膀胱へ繋ぐ片方の管の流れが良くないと指摘された。

 また、直腸検診も受けた。これは初めてだったのでやや驚いた。どうするのかと思ったら、
看護婦から下着を脱いで診察台の上に乗るように言われた。医師が膝を抱えてという指示、しばらくすると、肛門に指が入ってきて、痛いですかと聞かれた。痛さは感じなかったが、変な感じだった。これでどうも問題なかったらしい。

 検査結果は、頚椎捻挫、腎臓の位置のズレ、腎臓から膀胱への管の流不良だった。

 一通り事故に関する検査が終了あと、ザンビアで歯の詰め物が取れ応急処置をしていたので、リハビリと並行してそちらの治療にも取り掛かった。

 仮の詰め物を説明したとき、ザンビアで詰めてもらった旨説明すると、そこに居合わせた先生方が興味津々に私の口の中を覗きにきた。

 歯の治療は詰め物だけと思っていたがレントゲンを撮った際、生えてきたときに顎の骨を圧迫する大きな親不知が見つかり、抜歯することになった。これが大変だった。レーザーメスで歯茎を切り開き、ドリルで穴を開けて二つに割り、それを引き抜くという手術だった。手術自体は手際よく済んだが、その後の激痛にはほとほと手を焼いた。処方された鎮痛剤は直ぐになくなり、追加で処方してもらった。一日二日はほとんど眠れなかったほどだった。

 この入院のとき、私の他にも事故等で一時帰国入院している協力隊員が二人いた。一人はマレーシアで車が横転し、頚椎を損傷、腰の骨を移植する手術をするという隊員、もう一人はスリランカでやはり交通事故で軽い頚椎捻挫であった。頚椎損傷の隊員は大手術で、手術後一ヶ月はベッドから下りられなかった。

 病室は、重症患者もいた6人部屋だった。入院生活など成人してからしたことがなく、私自身軽症の部類なので至って元気だった。朝7時には検温があり、その後朝食、12時に昼食、5時半か6時には夕食、そして9時には消灯だった。夜が早すぎるので、階段の照明でよく本を読んだりした。
 
 約一ヶ月入院して退院したが歯の治療が終わるのにそれから4週間ほどかかった。その間は旗の台にあった帰国隊員のマンションに居候させてもらった。事務局、国担当へ挨拶をして9月のはじめにはザンビアへの帰途に着いた。


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