28グレートイーストロードでの交通事故

 誰もが考えてもみないことだろう、まさか自分が交通事故に遭うことなど。

 赴任した年が明けた1987年の2月か3月、土曜日の午後だったかやや熱っぽかったので休んでいたら、ドアがノックされた。専門家が帰国するので見送りにどうかとのお誘いがあり、それではというので車に乗り込んで空港へ向かった。途中、彼女の母を乗せるために彼女の家へ立ち寄った。

 空が薄暗く小雨が降ったり止んだりの夕方だった。グレートイーストロードを空港に向かって車はスピードを上げザンビア大学の横、丁度JICA事務所の横、を登りから下りに入ったとき、大きな衝撃が走った。

 何が起きたのかまったく理解できなかった。幸いにも意識はあり、ただ、眼鏡が飛び、よく見えないが強打した感覚が顔面と身体に感じた。しばらくして、どうやら対向車とぶつかったという事がおぼろげにわかったが、成す術なくその場から動けなかった。

 眼鏡が飛んでしまったのでよく見えていないが、唸り声が聞こえる。しかし、意識を失っている者はいないようだった。動こうとしても動けない。どれくらい時間が経ったのかわからなかったが、日本語が聞こえてきた。大丈夫かと。顔を切っているらしく血が顔面から流れ、上着にも着いていた。

 車から引きずり出され誰かの助けを借りて車に乗った。そしてUTH(ザンビア大学付属病院)へ運ばれた。医療調整員はJICA事務所から注射器、縫合用の針と糸を持ってきていた。診察待ちが多く医師を待つことになったがなかなか順番が回ってこない。

 そのうちに完全に一人で歩けなくなってしまった。トイレへ行くにも誰かの助けが必要になった。それからどれくらい時間が経ったのだろう、診察室へ呼ばれザンビア人の医師が診察した。何かを看護婦に言いつけて、直ぐにどこかへ行ってしまった。

 切れている箇所を縫合することになった。医療調整員は持参していた医療器具を看護婦に渡してこれで縫合するように支持した。麻酔など打たなかったと思う。看護婦は手馴れた手つきであったがかなり疲れているようで、ため息をつきながら、今日は疲れた疲れたといいながら私の目の周りと頬のキズを縫合した。

 縫合が済んだら治療は終わり、入院などということは余計に危険を伴うようなので医療調整員の家で療養することになった。一人では歩けなくなっていたので助けを借りて車までいった。

 他の人はUTHには運ばれなかったのでどうしたのだろうかと思っていた。後から聞いたが助手席に乗っていた人は、大腿骨骨折の重症、運転手は手首骨折、そして、後部座席のもう一人胸部打撲だった。それゆえ、医療技術において信頼できる最も近い国、南アへ移送したとのことであった。


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