11 職場の人々

 配属先である公共事業省建築局にはいろいろな国の人が働いていた。当時、ザンビアは親ソであったのでロシア・東欧諸国の技術者やロシア・東欧へ留学したザンビア人が多かった。もちろん旧宗主国英国への留学者もいた。公共事業省次官はケンブリッジで学んだザンビア人が就いていた。局次長はキエフ大学へ留学したザンビア人と英国人のハーフ、部長はザンビア人、課長はスリランカ、イラク、インドなど英国を宗主国とする国が多かった。技術者もモスクワ帰りのザンビア人、ポーランド人、ウガンダ人、ソ連人、ベルギー人、ドイツ人、そして日本人(JOCV)など多種多様な様相を呈していた。

私との関係では、局次長であったソニークロフト、彼はJOCVの担当でもあった。それから、設計4課課長であったムーマ(英国籍イラク人)、ポーランド人建築技術者、ドイツのGTZから派遣されていたヴォルフガング、モスクワの大学を終了したばかりのザンビア人の建築技師、アシスタントのジョセフ、タイピストとして、ミセス・バンダ、オフィスオーダリーのムトンガなどである。

ソニークロフトは先にも説明したとおりザンビアでは名が通った家の出身であり、キエフで学んだ。ムーマはイラク人であるがウェールズ大学で建築学を修めた経緯からか、英国政府派遣という形でのコントラクターだった。性格なのか言葉の壁のせいなのか、コミュニケーションが取りにくい人だった。部屋にはウェールズ大学の卒業証が掛けてあり、初めて彼の部屋へ入ったときにそれを説明された。

設計四課といっても恒常的に仕事があるわけではなくみんなのんびりとやっていた。仕事の割り振りはムーマがそれぞれにこの仕事、あの仕事と声を掛けそれぞれがそれぞれの仕事をしているという状況だった。私の仕事も全てそうであった。途中からポーランド人が異動して来たり、ドイツ人が赴任してきたりしたが、彼らと一緒に仕事をすることはなかった。だから、彼らとのコミュニケーションは挨拶程度でそれほど密に話した記憶がない。

ロシア人の女性が一人働いていたが、やはりザンビア人と結婚してルサカに住んでいた。彼女はオープンマインドで会う度に話をした。しかし、ムーマとはそりが合わなかったらしく、彼はいつも彼女のことを良くは言わなかった。ロシア語が出来る人たちはそれなりにグループが出来ていたようだ。奥さんがロシア人だったり、ロシア留学組みだったりと。

ザンビア人はこの職場で留学のチャンスを待っているというのが本音ではなかっただろうか。留学も政府機関から順番にチャンスが巡ってくるようで、ブリティッシュカウンシルやソ連、東欧諸国からのスカラーシップが用意されていた。ここでは仕事も差ほどあるわけではないので経験をつむといっても限界があった。

インド人・スリランカ人の技術者も働いていた。インド人はザンビア政府との直接契約でスリランカ人は英国籍なのだろう、英国政府派遣であった。何れのコントラクターも2年程度というのは稀で5年6年、若しくはそれ以上継続して働いていた。つまりザンビア人技術者が育っていないのだろう。

インド人は私の任期中に帰国した。彼らのザンビア政府からの支払いは外貨と内貨の組み合わせだったようで、帰国間際、外貨が入用と相談を受けたので、クワチャからUSドルに交換した。これは非常に有り難がっていた。


前頁へ戻る 次頁へ

目次へ

Copyright (c) A.IIO 1996-2003 All Rights Reserved.