05事務所内暮らしと日本の中のザンビア


事務所内のドミトリー暮らしは12月までとなりそうだった。それは前任者のフラット以外に手当てされる見込みが無いということがはっきりしたからだ。つまり前任者が帰国するまでは空きが無くそれまでは事務所内のドミトリー暮らしということだ。

同期は私を除いて既にザンビア各地の配属先へ赴任し、残るは私ひとりとなった。ルサカ市内でも幸運な同期は現地訓練が終了すると直ぐにアパートへの入居が可能だった。それは後任用に住居が確保されていたからに他ならない。ザンビア大学獣医学部配属の二人は、事務所の直ぐ近くにマシュランドという大学職員用の寮があり、十分な空きがあったのだろう、こちらもすんなりと引っ越していった。

私の当面の住まいは、事務所の一番奥にある部屋にベッドが並べられたドミトリーと称した部屋だった。配属前までは同期がいたので毎日賑やかだったが、一人になると非常に静かになり本を読む時間も出来た。5時には仕事が終わるのでそれから事務所へ戻ってもまだJICA職員やローカルスタッフがいたが、彼等が帰ると雑用係のアローニと私だけになった。

事務所に暮らしているときにふと日本とザンビアの関係はどうなっているのかと思い事務所内の本等からエピソード的なトピックが見つかった。

1964年に開催された東京オリンピックの開会式にザンビアの選手団は北ローデシアの国旗を掲げて行進し、オリンピック開催期間中に宗主国英国からの独立が達成され、閉会式の行進には独立国家ザンビアの国旗を掲げて行進したという。ザンビアの独立は1964年10月24日であった。

現在、日本の中にザンビアを見ることはほとんど皆無に近い。一方、ザンビアの中に日本を見ることは容易である。Maid in Japanがあるからだ。それに、JOCVやJICAの事業が長年継続され、ザンビアでは日本人は”ジャパニ”と呼ばれ、その数は常時200人ほどは住んでいたのだろう、ザンビア内での影響は少なくない。

実際には日本の中に天然資源が輸入されているので見えない形でザンビアが存在する。ザンビアの主要産品である銅やコバルト地金が日本へ輸入されている。コバルトはレアメタルの一つでありジュラルミン製造に欠かせない航空機産業における戦略物資である。最近は僅かではあるがコーヒー豆も輸入されていると聞く。

帰国し翌年、昭和64年初頭、大喪の令でカウンダ大統領(当時)がブッシュ大統領(現ブッシュの父親)の隣に座っている映像を米国からCNNを通してみた。なぜ、カウンダ大統領最前列に座っていたのか、今もってこの疑問は解けていない。



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