04勤務開始、されど宿無し |
この職場の面々は多種多様であった。建築局次長はソニークロフトさんというザンビア人と英国人の混血だった。彼の父親は英国植民地時代、東部州の知事であったと聞いている。トップにはザンビア人がいるものの実質的には外国人によって切り盛りされていた印象だった。設計4課の課長は英国から派遣されていたウエールズ大学出身のイラク人であった。なぜウエールズ大学出身だということを知っているかというと、彼の部屋の壁にに卒業証書が張ってあったからだ。ここではこういう習慣なのかと認識した。 設計4課にはタイピストのおばちゃん、ミセス・バンダがいて、ルサカ地方で話されているニャンジャ語で挨拶をするよう、毎朝、訓練された。ムリブワンジー、ディリブノなどなど、現地語で話すとにっこりと満足げに微笑み返してくれた。帰るときも同じであった。彼女は時間に正確できっちりと始業時間には事務所にいたし、就業時間にもきっちりと帰宅した。タイプの仕事はほとんど無く、時間をもてあましていたようだ。 建築局での仕事といっても取り立てて直ぐにしなければならないこともなく、配属されたと時にイラク人の課長に挨拶しただけでその後打ち合わせもなかった。それで他の人が何をしているのかと各部屋を挨拶して回った。その結果いくつかのプロジェクトが動いていることがわかった。しかし、基本的には何をすべきかは自分で考えるという結論に達した。 ランチ時、同僚の協力隊員に近くの食堂へ連れて行ってもらった。ここが食堂かとは外からはなかなかわからない。窓の小さいブロック作りの小屋へ入るとそこは確かに食堂だった。メニューは本日可能なものだけ、ここでシマヤニャーマ(シマというとうもろこしの粉を茹でたものとシチュー)をよく食べた。炭でじっくり煮込んだシチューはなんとも表現しがたい味だった。肉のほかに淡水の魚の干物を煮戻したものやレイプという野菜を煮たもの、Tボーンステーキ等がメニューにあった。そのときは移動手段が徒歩しかなかったのでよくここへ通ってランチを食べた。 宿無し生活も一ヶ月を越えると、JICA事務所内ドミトリーでの暮らしも結構慣れてくる。最初は食事に困ったものだが、台所で事務所付のサーバントからザンビア料理を習ったりして、時間が過ぎていった。彼はアローニという名前だった。
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