04勤務開始、されど宿無し


現地訓練(Mongu)から戻って派遣先での仕事がはじまった。この頃になる私を除いた同期14名はそれぞれの任地へ赴いていった。ザンビアに着任後事務所内のドミトリーで暮らしていた同期は一日ごとに減り、結局、最後は私一人となった。本来なら派遣協定でザンビア側が住宅を用意することになっていたが、前任者と3ヶ月ほど重なることになり、住宅不足のザンビアでは、新たに手配されることは困難であった。

そういうわけで、事務所内ドミトリーに住みながら派遣先の公共事業省建築局へ通勤した。特別待遇なのか、朝夕、車が差し向けられての通勤となった。しかし、徒歩以外身動きが取れないので、かなり不便を感じたし、車があるときと無いときがあり、無いときは車がこないだけで連絡が無かった。そのうち、HONDA CD-50という50ccのバイクが日本から届き、それが我々に割り当てられた。50ccとはいえ、このバイクによって行動範囲が格段に広がり、また通勤の車を心配をしなくても済むようになった。

配属先は先のとおり、公共事業省建築局設計4課であった。英文名はSection 4, Buildings Department, Ministry of Works and Supplyである。日本で言えば建設省(現国土交通省)のような組織に相当するが行政的な機関ではなく現業を主とする官庁であり、営繕課といったほうが適当かもしれない。ここは主に政府系の建物などの建築設計を行っていた。私はLandscape Architectという立場であったのでそれらのプロジェクトにおいてランドスケープデザインを担当した。 この職場には私の他にJOCVが3人赴任していた。建築設計と建築設備、及び私の前任者である。

この職場の面々は多種多様であった。建築局次長はソニークロフトさんというザンビア人と英国人の混血だった。彼の父親は英国植民地時代、東部州の知事であったと聞いている。トップにはザンビア人がいるものの実質的には外国人によって切り盛りされていた印象だった。設計4課の課長は英国から派遣されていたウエールズ大学出身のイラク人であった。なぜウエールズ大学出身だということを知っているかというと、彼の部屋の壁にに卒業証書が張ってあったからだ。ここではこういう習慣なのかと認識した。

建築局内は、スリランカ人、ウガンダ人、インド人、ポーランド人、ロシア人の女性、ドイツ人ボランティア、ベルギー人ボランティア夫婦などが一緒に働いていた。当時ザンビアは親ソであったため、ここで働いていた人たちは旧共産圏の人や旧共産圏へ留学した技術者が多かった。旧ソ連や東ドイツで学んだザンビア人が相応のポジションに就いていたが、技術的には経験が不足していたのでさらに外国人に頼らざるを得ない状況であった。米国平和部隊が以前ザンビアで活動していたが既に追い出してしまった後なので米国人は誰もいなかった。

設計4課にはタイピストのおばちゃん、ミセス・バンダがいて、ルサカ地方で話されているニャンジャ語で挨拶をするよう、毎朝、訓練された。ムリブワンジー、ディリブノなどなど、現地語で話すとにっこりと満足げに微笑み返してくれた。帰るときも同じであった。彼女は時間に正確できっちりと始業時間には事務所にいたし、就業時間にもきっちりと帰宅した。タイプの仕事はほとんど無く、時間をもてあましていたようだ。

建築局での仕事といっても取り立てて直ぐにしなければならないこともなく、配属されたと時にイラク人の課長に挨拶しただけでその後打ち合わせもなかった。それで他の人が何をしているのかと各部屋を挨拶して回った。その結果いくつかのプロジェクトが動いていることがわかった。しかし、基本的には何をすべきかは自分で考えるという結論に達した。

ランチ時、同僚の協力隊員に近くの食堂へ連れて行ってもらった。ここが食堂かとは外からはなかなかわからない。窓の小さいブロック作りの小屋へ入るとそこは確かに食堂だった。メニューは本日可能なものだけ、ここでシマヤニャーマ(シマというとうもろこしの粉を茹でたものとシチュー)をよく食べた。炭でじっくり煮込んだシチューはなんとも表現しがたい味だった。肉のほかに淡水の魚の干物を煮戻したものやレイプという野菜を煮たもの、Tボーンステーキ等がメニューにあった。そのときは移動手段が徒歩しかなかったのでよくここへ通ってランチを食べた。

宿無し生活も一ヶ月を越えると、JICA事務所内ドミトリーでの暮らしも結構慣れてくる。最初は食事に困ったものだが、台所で事務所付のサーバントからザンビア料理を習ったりして、時間が過ぎていった。彼はアローニという名前だった。


前頁へ戻る 次頁へ

目次へ

Copyright (c) IIO Akitoshi 1996-2003 All Rights Reserved.