03現地訓練(モングでのホームステイ)



 協力隊には現地に赴任してからその国の生活に慣れるのと任地以外の事情に触れる意図で、現地訓練と称する2週間の現地研修が計画されていた。私の任地は首都ルサカなので必然的に地方へ行くことになった。しかし、ルサカで現地訓練を実施したという話は聞いたことがないので、全員地方で現地訓練をしたに違いない。私の現地訓練先は西部州モングのマリピロ家であった。これは既に活動をしている協力隊員の赴任先に打診して決めているようであった。マリピロさんはモングに派遣されている薬剤師のMさんの紹介であったので、彼は保健省に勤務していた。

ルサカからモングへの交通手段はバスである。ルサカからほぼ直線で真西に600キロの距離にザンベジ川が流れており、その河岸段丘上にモングという町はあった。王様がいるというザンビアの中では名がしれた町であり、クオンボカという雨季と乾季に王様が住まいを換える祭事が有名であった。

8月中旬の早朝、ルサカのバスターミナルからUBZのバスに乗り延々と直線道路をひたすら走った。茄子は満席、乗客はザンビア人のみ、途中、アンゴラ内戦の影響なのか軍によるチェックポイントがいくつかあり、パスポートとJICA事務所でもらったレターは必携だった。中間地点にカフェ野生動物保護区があり、そこを道路が横断しているのだが、ここのチェックポイントが一番厳しく、全員降ろされた。外国人は私一人、特別に自動小銃の銃口がこちらを向いているところへ招かれ書類を出し、”ジャパニ”かと聞かれ、Yesと答えるとそれだけだった。

その他のチェックポイントでは、チェチェコントロールの係員がバスの中に捕虫アミをもって乗り込ん出来たこともあった。もし、チェチェバエを見つけたとしてもそんなに簡単に捕まえられるものだろうかと人ごとながら心配した。

夕方、5時ごろにモングのバス停に到着した。ルサカから8時間はかかっただろうか、そこは丁度堤防の上に位置し、子供の頃よく遊んだ木曾川を思い出したが、スケールが違いすぎた。ザンベジ川の氾濫原は「壮大な」という言葉に値した。バス停に迎えに来た人たちがバスを待っていた。そこから、荷物を持って歩いてとぽとぽと家路に就く人、堤防の下から細い水路を利用して丸木船に乗る人、ものすごく広い河川の流が見えない河川敷を歩いて帰る人など様々な光景だった。かし、私の出迎えはバスが着いたときにはおらず、心細さ反面、好奇心半面で広大ザンベジ氾濫原のスケールを堪能した。 しばらくして、薬剤師のMさんがやってきてマリピロ家へ連れて行ってもらった。

マリピロ家は、夫婦に子供二人、そして甥を預かっていた。一通り挨拶をした後夕食となった。初日なのでご馳走なのだろう、シマ(メイズを粉に挽きお湯の中へ入れて練ったもの)と野菜の煮込みだった。ザンビア料理は衛生上の問題なのか何でも煮込んでしまう。それにシマを付けて食する。慣れれば旨い、他に選択肢もないので食べない訳にはいかないのだが。

さて、どこで寝ることなるだろうと思ったらその甥と一緒の部屋だった。しかし、ベッドは一つしかないので一緒にということか。初日は一緒に寝たが、そんな経験は女以外ないので寝付かれないし、熟睡も出来ない。 それで、念のために持ってきたシュラフを使うことにした。先ず、ヨシで編んだござを借りてその上にシュラフで寝た。床はコンクリートが打ってあったのでござが丁度よいクッションになり、それ以降は熟睡が可能となった。ベットはその甥に明け渡した。

最初に寝たベッドだろうな、その翌日から体中のあちこちにダニにやられたと思われる痕跡があちこちで発見された。虫刺されなど持っていないのでそのままにせざるをえなかったが、ベッドで寝ないようにして正解だった。

無償でホームステイというのはいささか厚かましいことであり、JICA事務所よりいくらかの滞在費が支出されていた。このお金を渡したら効果満点、その日から食事に鶏肉が出されるようになった。一般的にザンビア人の生活は非常に厳しい状況であったので臨時収入は家庭の食生活を一時的にはであるがかなり向上させた。子供たちは嬉しそうに肉をほおばっていた。マリピロさんは保健省公務員、給与所得だけでは家族全員の十分な食事さえ取れていない印象だった。しかも、甥を一人預かっているので尚更だっただろう。想像するに預かっているにはそれなりの理由があるはずで決して楽な生活ではなかったであろう。

ルサカへ戻った後で同期の現地訓練先の話と比較すると、モングのマリピロ家は待遇がよいほうで、ある同期は農家でホームステイをし、草で出来たマッシュルームハウスに寝泊りし、野ねずみなど食べていた、と聞いた。ダニの被害などは日常茶飯事だったとのこと。

現地訓練といってもホームステイするだけで他に何をするということでもなかったので、先ずモングの町を探索に行った。一緒に住んでいたマリピロさんの甥が小学生5−6年生、それにしては小柄だったが、の子が案内役を買って出てくれた。丁度学校が休みだったのだろうか、毎日家にいた。

町へ出て、といっても歩いて10分くらいだっただろうか、マーケットやお店をを見て歩いた。写真撮影は難しいと聞いていたが、ここで引き下がっては地の果てまで来た甲斐がないと思い、カメラを取り出し町の様子やマーケットの様子を撮っていたら、以前にもお世話になったソ連製のジープがサーとやってきてAK47を突きつけられた。何を言っても聞いてもらえず、そのジープに乗れというのでマリピロ家の甥を残してモング警察署まで連れて行かれてしまった。警察署では、署長が出てきて、カメラをみせて事情とJICAからのレターを提示して放免してもらった。ここはソ連と同じだなーと実感した一瞬だった。

時間をもてあましていたので日本を出発してからルサカに到着後も慌しく、挨拶状も書いていなかったので丁度良い機会と捉え、友人知人へ手紙を書いた。もちろん日本に置いてきた、そうせざるを得なかった彼女に書いたが、こんなところから日本まで届くのかどうかまったくわからなかったが他に手段も無いのでとにかく投函してみることにした。モングには郵便局があり、書き溜めた手紙を持って、また、パリピロ家の甥に案内してもらい郵便局まで歩いた。小さな郵便局だったが機能している様子、切手を買い手紙に貼り付けて投函した。その時にザンビアの動物や鳥類、魚類をデザインした切手が目に入ったので職員に頼んで全ての切手を見せてもらったら、ルサカではもう売っていないやや古いが新品の切手が何種類かあり、購入した。これらは今でも実家に保管している。ちなみにモングから投函した手紙は日本まで全て届いていた。立派なものだ。

現地訓練期間中は、基本的にはその土地で活動している協力隊員とは一緒には行動しないが、一度だけ、モングに赴任しマリピロさんを紹介した薬剤師と同じ病院に勤務してた看護婦隊員が私を夕飯に招待してくれた。久しぶりの日本語でのありしかも日本食であった、そして、モング事情を日本人から口から聞いた。モングにはこの二人の他、ザンベジ川を渡った向こう側、ボートで移動する、のカロモという土地に稲作を専門とする協力隊員が活動していると聞いたが、想像すらできなかった。もう少し西へ行くと地図上ではアンゴラだ。

 この食事会の翌日だっただろうか、職場を見せてもらうように二人にお願いしておいた。カメラを担いでモング総合病院(Mongu general hospital)へ出かけた。看護婦隊員には病室を、薬剤師隊員には薬局を見せてもらった。わがホームステー先のマリピロさんもこの病院に勤務しているようだ。ザンビアの豊かな時代に建設したのだろう、こんな地方でも立派な病院だったが、その後、経済の低迷とともに医療機器や薬類も十分な供給が出来なくなったていたのだろう。とはいえ、白いシーツのベッドが並び、白衣の看護婦がテキパキと働いている様は、私には非常に新鮮に映ったし、これが英国植民地時代の名残かとも思った。

何をするわけでも無かったが毎日モングの散策を続けて、ザンビア料理を食べていた。一日3食は食べていたなった記憶だ、朝はパンと紅茶、昼は茹でたメイズかキャッサバ、若しくはシマヤ・ニャーマ(シマと肉の煮込み)、夕飯も同じ。モングの名産はマンゴだったが季節が早すぎたのかそのときはシーズンでは無かった。モングのマンゴはルサカに戻ってからソウエト・マーケットで調達した。その他、ザンベジ川の魚の干物が美味しかった。ブリームやナマズの干物は一般的だったが、時々タイガーフィッシュの干物があり、これは淡白で野菜と煮込むと美味しかった。

キャッサバは痩せた条件の厳しい土地でも十分に生育する作物で、モングは砂地が多くここでもよく育っていた。薄く切り、フライにするとキャッサバ・チップスとなり、町で売っていた。つまんでみたがこれがなかなかサクサクして美味しいスナックだった。

毎日続く澄み切った青い空、川面が見えない広大なザンベジ川のバロツェ氾濫原、遠くにマンゴの木が見えるが、延々とその先まで歩いている人たち、雨季にはこの氾濫減も冠水するという、その合間の細い水路には丸木舟がゆっくりと川面を滑らしている。そんな時間がゆっくり流れるのがモングの町だった。舗装した道路はほんの僅か、ほとんどは砂の道で非常に歩きにくかったがこれもモングの特徴だった。徒歩なのでスタックするようなことはないがかなり深いところもあった。モングの人たちをそういう道でもBataサンダルで平気に歩いていた。

記憶に残っていることの一つにモングの夜がある。星空が絶品だった、くどいようだが本当に満天に輝く星空だった。視力の弱い私でもそう思うのだから通常の視力の人だったらどんなだろうか。もう一つは月明かりの無い夜は目を凝らして前を見て歩かないと人にぶつかることがあるということだ。カップルが道路の真ん中で抱き合っているといくら暗闇に目が慣れているからといっても肌の色が保護色となり寸前まで気が付かないことがあった。そして、あぶない、あぶないと思って何か言葉を口にすると、ニヤッと笑った際に見える白い歯が暗闇に浮き出るのだ。これには驚いたな。

時間がゆったり流れるモングの町での2週間の滞在はあっという間に過ぎ去り、マリピロ家を後にすることになった。甥と二人の息子さんに見送られた。(写真参照)そして、モングへ来た経路と同じ今度は真東へ600キロ先のルサカへ戻った。


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