02ザンビアへ

 机上では少し知識を詰め込んだといえどもまったく文化が異なる地域への赴任なのと語学力の問題で非常に緊張した。帰省中、県庁と本籍地のある役場へ挨拶にいったり(そういうスケジュールが組まれていた)、友人・知人などが送迎会をしてくれたり、また、特別親しくしていた人に会いに大阪まで足を運んだりとあっという間に出発まで時間が過ぎていった。荷物も既に東京から実家へ送り返してあり、ザンビアへ持っていく荷物は実家で詰め荷物は出来るだけ少なくした。別送品の送り方などオリエンテーションがあり、それなりの支度金ももらっていたが別送品は送らないことにした。日本から持っていけばそれはそれでいいのだが、ザンビアで暮らすのだからできるだけザンビアで調達しようと考えていた。それでも、83年にヨーロッパを旅行したときに使っていたバックバックとアルミのケース一つという内容になった。

 1986年8月初旬、大学の研究室の同期に見送られながらザンビア派遣同期15名(内女性2名)と成田空港から一路BAでロンドンへ飛び立った。当時はまだソ連上空を飛ぶことが許されてなくアンカレッジ経由での航路であった。途中、植村直己が遭難したマッキンレーが左手に鮮やかに見えた。ロンドン・ヒースローには翌日の朝に到着した。この空港は1983年に初めて海外へ赴いたときに降り立った空港であったが、最初でも2回目でもさほど変わらず緊張していた。

 ナイロビへのフライトはその日の夜だったのでロンドンでは仮眠のためのデイユースホテルが予約されていた。そのホテルへはバスで行くことになっていたが、なかなか来ないうちに緊張感がほぐれ、大きなミスをしてしまった。パスポートを入れた鞄を置き忘れたのである。しかし、これは幸いにも直ぐに解決した。置き忘れた場所、観光案内所へに行ったら、職員の人が預かっていた。先行き思いやられるミスだった・

 デイユースのホテルで長旅の汗を流したが、このときの長旅など後から思えば可愛いものだった。せっかくロンドンへ来たのだからと市内へ足を伸ばし、83年にも訪れたロンドン大学(ラッセルスクエア界隈)へ行ってみることにした。ホテルのレセプションで市内への行き方を聞いたのだが、どうも理解していなかったようでなかなかバス停にはなかなか辿り着けなかった。なんとかバスと地下鉄を乗り継いで、トッテンハムコートロードで降り、以前の記憶を便りに大学界隈まで歩いた。

 ナイロビ行きのフライトが遅れに遅れナイロビでの乗り継ぎ便であるザンビアエアーに乗れないことになり、ナイロビに一泊することになった。ナイロビには午後に到着した。初めてのアフリカでの入国審査などこれまた緊張の連続だった。係員はなにかとお金を巻き上げようとあの手この手でやってくる。関所のようなもので何がしかを、ボールペン一本でも、手に入れるまではなかなかしつこい。この予定変更でナイロビに一泊することになったので、それはそれでチャンスとばかり市内を駆け足で散策した。

 足掛け3日になろうか、ナイロビからのルサカへのフライトも送れて、ザンビアの首都ルサカには暗くなって到着した。眩しいサーチライトに照らされながらタラップを降りたザンビアについたという実感を噛締めた。熱帯高地ゆえか乾燥した気持ちのいい気候だった。ここでの入国審査は出迎えの調整員のおかげですんなりと入国し、そのまま、車に分乗しJICA事務所にあるドミトリーへ直行した。

 翌朝、目が覚めたら澄み切った青空の広がる素晴らしい大地が視野に入った、これがザンビアかと実感したものだ。事務所の前がザンビア大学のキャンパスでここがまた素晴らしいキャンパスでブーゲンビリアの赤紫色の花が咲き乱れていた。

 オリエンテーションが始まり、一つ一つがはじめてのことばかりで新鮮だった。移動にしても食事にしても何もかも日本とは異なっていた。




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