01プロローグ(序文)


思い出すままに、20代中ごろから後半にかけて2年間の月日を過ごした国、ザンビアについて書き留めておこうと思ったのはいつごろだろうか?

大学4年の1983年2月、初めて海外へ飛び出した。そのときはヨーロッパを選び33日間大陸を鉄道旅行した。そしてコンサルタント会社へ就職したものの、先のヨーロッパ旅行の印象が忘れられず、さらにヨーロッパを見てみようと1985年にテーマを絞って見聞旅行を企画、勤務先の了解をなんとか得て実現させた。

その見聞旅行の後は元のコンサルタント家業に戻り忙しく働いていたのだが、何かもっと自分が出来ることはないだろうかと欲が出てきた。ある日、銀座線に乗ったとき、協力隊員募集の吊り広告が目に入った。協力隊のことは大学在学中から知ってはいたものの、自分が参加することはまったく考えていなかった。専門分野の知識も語学力もないことを考えると、遠い存在であったからだ。しかし、そのときは問い合わせしてみようと思い、資料を請求した。とにかく行動をと考え、協力隊に申し込み、一次試験のペーパーテストを受けたら、合格通知が届き、そして、二次試験である面接の案内がしばらくして届いた。

2月初旬、雪が降りそうな寒い日、代々木オリンピックセンターで面接試験が行われた。この時のことは良く覚えている。というのは、同じ建物で中国残留孤児の面接を行っており、マスコミ各社が取材に来ていたからだ。同じ場所で行っていたため、会場を間違えて残留孤児面接会場へ入ってしまい、あわてて2階の階段を駆け上がった。

面接官からは一通りこれまでの業務経験を聞かれた。特に難しい質問はなく、経験の有無を確認していたようだった。面接が終わって出てきたら辺りはもう薄暗く雪がちらついていた。外ではテレビ局のアナウンサーが代々木オリンピックセンターの前に立ち、中国残留孤児面接の実況中継をしていた。

3月になり二次試験の結果が届いた。恐る恐る封を切ったら合格だった。そして派遣国はどこだろうかと合格通知を凝視して「派遣国ザンビア」と記されている文字を確認した。さて、ザンビアってどこだったかな、そしてどんな国だったかな?資料を見直し英国の元植民地、北ローデシア、公用語が英語というのがわかった。迷い無いと言えば嘘になるが、これが自分へ課せられた運命であると肯定的に捉えることにした。そうしなければ前に一歩踏み出せないこともあった。勤務していた会社へ協力隊へ参加することを報告し、3月末日を持って退職することになった。事務局では休職できるように補填制度を設けていたが、勤めていた会社は組織も小さく先行きも不透明だったことからその制度は利用しなかった。

翌月の1986年4月から3ヶ月ほど広尾の住人となった。区役所へ転入届を提出し、国民年金の支払い用紙を受け取った。広尾に住むことになったのは、協力隊の派遣前訓練を受ける施設が広尾にあり、その中で生活した。広尾訓練所は建て替えられたばかりの新しい建物で我々が最初の入居者となった。部屋は20人用の大部屋で2段ベッドがあり、合宿生活のようであった。この訓練所の直ぐ後ろには建ち上がったばかりの高級マンションである広尾ガーデンヒルズが控えていた。広尾の街もそうだが、これから進もうとする道が世の中から外れているのではないかという危惧が若干あった。

この訓練所生活は一種の缶詰状態であり、朝から晩まで語学をはじめ様々な講義を受けた。サバイバル術、感染症、任国事情など興味深かった。朝6時起床、そして朝礼と国旗掲揚、就寝前の点呼は軍隊さながらの印象だったが、座禅訓練や八丈島マラソン、そして、豊島園で行われた水泳大会など盛りだくさんであった。参加している人たちは年齢もそのバックグランドも様々な人たちが集まっており、彼等との交流は非常に楽しくこれまでにない日本人社会のの幅を経験した。

3ヶ月あまりの訓練期間を経た7月初旬、最後のビッグイベントである「謁見の儀」という国儀があった。これは、当時皇太子だった現天皇陛下夫妻及び現皇太子殿下に謁見される(正式にはこういう表現なのだろう)ために東宮御所を訓練生全員で訪れ、歓談した。御所は白樺の林が庭に広がり、そこからは周囲のビルが見えない静寂さがあった。

7月初旬、謁見の儀の数日後に訓練が終了した。協力隊の訓練所は2箇所あり、派遣国により駒ヶ根訓練所と広尾訓練所分かれて派遣前訓練が実施された。訓練終了後に合同で日本青年館において壮行会が開催された。その時の国際協力事業団総裁であった有田圭輔総裁(2005年11月17日逝去)から訓示があった。

「君たちは日本の国際化への先兵だ!」

非常にインパクトのある意味深い開口一番の言葉であり、印象に残っている。

協力隊は公用旅券で派遣されるため必要な書類を提出し、身辺整理と称して帰省が許され、本籍地の県庁へ同県出身の同期と挨拶に行った。出身自治体の首長へも挨拶をするようスケジュールが組まれていたので、自ら連絡を取り、村長に挨拶をしに行った。協力隊の認知度は低く、また、なぜアフリカへ行くのか不思議だということが表情から読み取れた。地方の首長にこれを理解しろというのは無い物ねだりであろう。

派遣は国ごとに異なり、ザンビア派遣組み15名は1986年8月初旬、英国航空で成田からアンカレッジを経由してロンドンへ、そして同じく英国航空でナイロビ経由でルサカへ向けて出発した。同期だった隊員も同じ頃に世界各地へと赴任していった。

この回想録は、1986年8月初旬、ザンビアへ赴任し任期が満了帰国する1988年8月末までの約2年間の出来事を勝って気ままに当時の記憶を頼りに綴ったものです。そのきっかけは、ロンドン留学だろうか?

当時のザンビアと現在のザンビアで大きく異なる点は政治体制であり経済状況です。当時は冷戦構造末期で親ソ政権、米国平和部隊はスパイ容疑で追い出された直後、ザンビアはソ連邦寄りの政権でした。しかし、1989年以降その構造の崩壊によりザンビアの政治も変わらざるをえなかったのでしょう、国民投票の結果、独立以来の長期政権であったカウンダ大統領からチルバ大統領へ大きな混乱なく政権が移譲された。そして、民主化が大きな政治目標となっていった。

カウンダ政権末期の身動きできない状況は当時の私たちの生活等へも影響していたことは間違いない。比較することは出来ないが、活字になった情報等を読むにつけ、その変化を目のあたりにする。そういう意味においてはこのエッセイはいささか酒肴があるかもしれない。

Bloomsbury, London 2002年秋

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