01プロローグ(序文) |
面接官からは一通りこれまでの業務経験を聞かれた。特に難しい質問はなく、経験の有無を確認していたようだった。面接が終わって出てきたら辺りはもう薄暗く雪がちらついていた。外ではテレビ局のアナウンサーが代々木オリンピックセンターの前に立ち、中国残留孤児面接の実況中継をしていた。 3月になり二次試験の結果が届いた。恐る恐る封を切ったら合格だった。そして派遣国はどこだろうかと合格通知を凝視して「派遣国ザンビア」と記されている文字を確認した。さて、ザンビアってどこだったかな、そしてどんな国だったかな?資料を見直し英国の元植民地、北ローデシア、公用語が英語というのがわかった。迷い無いと言えば嘘になるが、これが自分へ課せられた運命であると肯定的に捉えることにした。そうしなければ前に一歩踏み出せないこともあった。勤務していた会社へ協力隊へ参加することを報告し、3月末日を持って退職することになった。事務局では休職できるように補填制度を設けていたが、勤めていた会社は組織も小さく先行きも不透明だったことからその制度は利用しなかった。 翌月の1986年4月から3ヶ月ほど広尾の住人となった。区役所へ転入届を提出し、国民年金の支払い用紙を受け取った。広尾に住むことになったのは、協力隊の派遣前訓練を受ける施設が広尾にあり、その中で生活した。広尾訓練所は建て替えられたばかりの新しい建物で我々が最初の入居者となった。部屋は20人用の大部屋で2段ベッドがあり、合宿生活のようであった。この訓練所の直ぐ後ろには建ち上がったばかりの高級マンションである広尾ガーデンヒルズが控えていた。広尾の街もそうだが、これから進もうとする道が世の中から外れているのではないかという危惧が若干あった。 「君たちは日本の国際化への先兵だ!」 非常にインパクトのある意味深い開口一番の言葉であり、印象に残っている。 協力隊は公用旅券で派遣されるため必要な書類を提出し、身辺整理と称して帰省が許され、本籍地の県庁へ同県出身の同期と挨拶に行った。出身自治体の首長へも挨拶をするようスケジュールが組まれていたので、自ら連絡を取り、村長に挨拶をしに行った。協力隊の認知度は低く、また、なぜアフリカへ行くのか不思議だということが表情から読み取れた。地方の首長にこれを理解しろというのは無い物ねだりであろう。 派遣は国ごとに異なり、ザンビア派遣組み15名は1986年8月初旬、英国航空で成田からアンカレッジを経由してロンドンへ、そして同じく英国航空でナイロビ経由でルサカへ向けて出発した。同期だった隊員も同じ頃に世界各地へと赴任していった。 この回想録は、1986年8月初旬、ザンビアへ赴任し任期が満了帰国する1988年8月末までの約2年間の出来事を勝って気ままに当時の記憶を頼りに綴ったものです。そのきっかけは、ロンドン留学だろうか? 当時のザンビアと現在のザンビアで大きく異なる点は政治体制であり経済状況です。当時は冷戦構造末期で親ソ政権、米国平和部隊はスパイ容疑で追い出された直後、ザンビアはソ連邦寄りの政権でした。しかし、1989年以降その構造の崩壊によりザンビアの政治も変わらざるをえなかったのでしょう、国民投票の結果、独立以来の長期政権であったカウンダ大統領からチルバ大統領へ大きな混乱なく政権が移譲された。そして、民主化が大きな政治目標となっていった。 カウンダ政権末期の身動きできない状況は当時の私たちの生活等へも影響していたことは間違いない。比較することは出来ないが、活字になった情報等を読むにつけ、その変化を目のあたりにする。そういう意味においてはこのエッセイはいささか酒肴があるかもしれない。 Bloomsbury, London 2002年秋
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